東京汐留 浜離宮恩賜庭園の「松の御茶屋(おちゃや)」書院の障子
自宅1階工房での障子製作 2010年10月


建具職人 友國三郎の腕の見せ所



2穴のほぞ穴が建具職人のこだわり



寸分違わぬ出来かどうか、建具職人の厳しい目が注がれる



組子のチェック



白木の障子としては、まもなく仕上がり。次工程は漆職人による漆塗りとなる


浜離宮恩賜庭園の「松の御茶屋」内での障子仕上げ
障子枠には黒色の漆が施されている


建具職人 友國三郎による漆塗りした障子部材のチェック



時には現場での調整も必要



円窓(まるまど)を通して見た障子仕上げ中の友國三郎



「満月に霞」の円窓から外を見た風景で、両脇の縦の黒漆は裏側の障子の枠



「松の御茶屋」から池を望む側の障子



付け書院の障子



同上、付け書院の障子



違い棚奥の障子



黒色の漆を塗った障子枠が見える「松の御茶屋」。
正面左のせり出したのが付け書院の障子。右側面の障子の内側に「満月に霞」の円窓



歴史:

 1654年(承応3年)に甲府藩主の徳川綱重がこの地を拝領し、海を埋め立てて別邸を建てた。その後は甲府藩の下屋敷として使用された。このため甲府浜屋敷、海手屋敷と呼ばれるようになった。綱重の子である徳川家宣が6代将軍になると、将軍家の別邸とされた。浜御殿と改称して大幅な改修が行われ、茶園、火薬所、庭園が整備された。とくに徳川家斉と家慶の頃は、将軍の鷹狩の場であった。幕末には、幕府海軍伝習屯所であった。  慶応2年に着工した石造洋館が、明治2年に外国人接待所「延遼館」として竣工した。延遼館は、明治維新後も鹿鳴館が完成するまでは迎賓館として使用された。明治3年に、宮内省の管轄となり名前も離宮と改められた。明治天皇も度々訪れるようになる。 1879年(明治12年) - 当時のドイツ皇太子(フリードリヒ)[要出典]が訪れた。日本を訪問した前アメリカ大統領のユリシーズ・S・グラントが延遼館に1か月滞在し、浜離宮内の中島茶屋で明治天皇との謁見が行われた。 1889年(明治22年) - 延遼館が取り壊される。 1945年(昭和20年)11月3日 - GHQの要求により東京都に下賜される。 1946年(昭和21年)4月1日 - 都立庭園として開園。 1952年(昭和27年) - 旧浜離宮庭園として特別史跡・特別名勝に指定される。 2000年代前半 - 対岸の旧汐留貨物ターミナルが再開発され汐留の高層ビル群が林立した。 2010年(平成22年)12月 - 松の御茶屋の復元工事が完了。 (wikipediaより)

 東京都建設局では、平成16年度から浜離宮恩賜庭園(特別名勝・特別史跡 旧浜離宮庭園)の復元整備事業を進めています。この一環として、江戸時代に創建され戦災で焼失した「松の御茶屋」の復元工事を進め、平成22年12月に復元工事が完了しました。

   松の御茶屋概要
建築面積 63.62平方メートル(約9.9メートル×約6.4メートル)
建物棟高 5.234メートル
間取り等 10畳+13畳 数寄屋造 屋根こけら葺

 「御茶屋」(おちゃや)とは、将軍の園遊の際に休憩や食事、接待の場などとして多目的に使用された建物で、専ら茶事をとり行うための「茶室」とは異なり、現存する類例は少ない。また、単に利用上の面からだけでなく、池と一体となって大泉水を構成する要素として、景観上も重要な建物とされている。 (浜離宮恩賜庭園の説明から)


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